真夜中にわき上がるハレルヤ

無軌道という方向性

士道 SIDOOH 幕末を力強く生き抜いた兄弟の物語 ある意味萌え絵も注目

 どんな漫画も読み始めがあるわけで、ストーリーの面白さがわかってくる前に、読み続けるのをやめてしまうこともままあります。無理して読んでいたら、その漫画の良さもわかるけど、たいていはそんなことしません。

ある意味萌え 絵が生き生きしている 

 読み続けた漫画と、飽きてやめてしまった漫画の分かれ道を考えたとき、スタートダッシュがうまくいったのはどうしてか考えたら、画力という一つの答えに行きつきました。

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士道より

 絵がきれいで、ごちゃごちゃせず、見やすくてというのが重要なんですか、単純に絵がうまくても、惹かれる絵と惹かれない絵がありますよね。じゃあ何が違うのかというと、広義の意味での萌えではないかと思っています。

 

 萌えというと恋愛的ななイメージを想像しがちですが、そうではなくて、何故かわからないけど自分にとって特別な感じがするという意味です。洗濯物を干す場面といった、ちょっとした描写さえ気持ちいいのは、ある種の萌えがあるからではないかということです。SIDOOH-士道-の絵はまさしくそれ、 キャラ作りを狙いすぎた不自然な感じはなく、かといって野暮ったい感じもなく、きれい。キャラクターの理想化具合が程よい範囲が、自分の中ではストライクゾーンのような気がします。

 

  絵のタッチでいえば、同様に筆のタッチが生かされた、バガボンドが思い出されたんですが、それよりは少し粗さがが少ない感じ、といったらいくらかわかるでしょうか。

 

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 特に主要人物の、兄・雪村翔太郎の凛とした姿、弟・源太郎のやんちゃなさま、百舌のつやのある描写、現実に存在しそうで、しなさそうな、生々しく、美しく、表情、場面の切り取り方も生き生きしています。絵が、作者の画風と、若い主人公たちのキャラと、雰囲気と、ストーリー性とに見事にマッチしたまれに見る快作といえるのではないでしょうか。

 ストーリー

 物語の出だしは、主人公の雪村兄弟の幼少期から始まり、幼くして母親の言葉を受けて、刀を手に二人だけで生きる決意をし、武士になっていく過程を、

 後半からは、雪村兄弟のポジションは幕府側の会津を抱えの武士として、新選組と共闘しながら、新選組とは、別の視点で、雪村兄弟の会津の武士として生き抜いていくさまが追いかけることになります。

 

 切りあいもあるし、知能戦もある。成長物語でもあるけどそれだけではない。簡単に言ってしまうと兄弟愛や、家族愛なのかもしれない。雪村兄弟の境遇を考えるとそれなしには語れない。やんちゃな源太郎がことあるごとに、兄ちゃん兄ちゃんと慕っているのを見ると、そう思わずにはいられません。

 

 史実に基づいて高杉晋作西郷隆盛も出てきて、幕末全員集合みたいになっているけど、味付けはこの漫画独自で、そう来たかという感じ。

 

 雪村兄弟とは因縁の関係にあり日本を征服しようとする瑠儀と、彼のコロシアムと忍者の隠れ里がミックスしたような白心郷という架空の設定が、幕末の動乱をさらにかき乱す要素としておもしろいし、

 

 幕末にあってタワーなどありえないのグラント塔、漫画らしい荒唐無稽さで、飽きさせない展開も作られています。

 

 士道というタイトルにピンときたのは、中盤、兄・翔太郎が率いることを任された隊が、翔太郎のことを認めず、翔太郎に背を向ける場面で、彼の思いを伝えます。

「この雪村章太郎を会津武士と認めぬなら、この場で切り捨ててもらおう」

「私の亡骸は磐梯山の見える所に葬ってほしい」

「縁あって会津に武士として育てていただいたこの身 

 あの美しい山は心の故郷なのです」

それ以前から会津への愛着は示していたものの、ここではっきりしたわけです。

翔太郎の会津への思いが、「ならぬものはならぬ」会津藩士たちを動かしたわけです。

雪村兄弟を会津の武士とさせたのも、そういう意図があったのだと気が付いた。

まさに武士の道。

 

 

 最終巻の25巻は、雪村兄弟の子供の時から見ているからこそ、ぐっとくるのもがあり、物語は、源太郎の士道が短く、力強く語られることで、締めくくられています。

 

 引き込むには萌え絵。読み続けるには、ストーリーが重要だと、士道を読んで考えました。子どもの頃ならまた違った感想を持ったのかもしれないと思いつつ。。。